釈迦の生涯

 釈迦、釈尊、お釈迦さま、ブッダ、ゴータマ・シッダッタ、ゴータマ・ブッダ、釈迦牟尼仏、釈迦牟尼世尊、などなど、多くの呼び名がある「釈迦」だが、ここでの呼び名は便宜上、「釈迦」とする。

 

 紀元前500年頃の4月8日、釈迦族の王子として釈迦は生まれた。この時の名を「ゴータマ・シッダッタ(ガウタマ・シッダールタ)といった。


 父は現インド・ネパールの国境付近にあったとされる釈迦国(シャーキシャ)の首都カピラ城(カピラヴァストゥ)の主であった浄飯王(シュッドーダナ)、母はその妻、釈迦族に隣接する部族のクシャトリヤ(貴族)出身の摩耶夫人(マーヤー)。

 

 摩耶夫人は6本の牙を持つ白い象が胎内に入る夢を見て懐妊し、出産の為故郷に帰る途中のルンビニ(ネパール南部の小さな村)の花園で休んでいるときに、右脇から釈迦を産んだ。
 釈迦は生まれた直後に七歩歩き、(ブッダの誕生を告げて開いた蓮の花に立ち)右手で天を指し、左手で地をさして「天上天下唯我独尊」と言ったという。
 釈迦を産んだ摩耶夫人は、産後七日目に産褥で死んでしまい、死後、帝釈天の居城とう利天(とうりてん/とうは立心遍に刀)に昇った。
 釈迦は成道後、このとう利天に昇り、母の摩耶夫人に法を説いたという。
 摩耶夫人の死後、妹の摩訶波闍波提(マハープラージャーパティ)が浄飯王に娶られ、釈迦の養母となった。

 

 王子が誕生した事で多くの者がカピラ城にお祝いにやってきたが、その中で、未来を占う優れた能力を持つアシタ仙人が、王子をひと目見てひざまずいて涙を流した。王が理由を尋ねると仙人は「王子は偉大な人になる三十二の相をそなえておられます。全世界を統率する転輪聖王(偉大な王)になられるか、偉大なブッダ(覚りを得た聖者)になる、そのどちらかでしょう。ただ、私はそれを見届けることができません。それが悲しくて泣いたのです」と答えた。
王はこれを聞き、釈迦に出家者としてブッダになるよりも、転輪聖王になって欲しいと願い、贅沢な専用宮殿や世話係、教師などを与えて育て、釈迦は優れた教養と体力を身に付けた、多感で聡明な青年に育った。

 

 釈迦16歳(または19歳)で母方の従妹、耶輸陀羅(ヤショーダラー)と結婚し、羅ご羅(ラーフラ)という息子をもうけた。

 ある日、カピラ城の東門から出るときに老人に、南門より出るときに病人に、西門を出るときに死者に会い、【四門出遊(しもんしゅつゆう)】この世に老病死があると、生きる苦しみを知った(生老病死)。北門から出るときに一人の修行僧と会い、俗世を離れた清らかな姿を見て、出家の意思を持つようになった。

 29歳の頃、いよいよ出家を決意し、深夜に王城を脱出した。愛馬カンタカに乗り、従者チャンナ一人を伴っていたと言う。
まず当時の大国であったマガダ国の首都、王舎城(ラージャグリハ)を訪れ、ここを拠点に修行に励もうと考えた。
 そこで尋常ならざる気品を放つ修行者を見つけたビンビサーラ王に、出家を止め王舎城留まるよう勧められたがこれを断った。
バッカバ仙人を訪れるも最終目標を六道輪廻の天上界としているので、ここでは最終的な解脱にはならないと知った。
次にアーラーラ・カーラーマ、さらにウッダカラーマ・プッタに師事するが、即座に師の境地まで達してしまう。
この三人の師は、釈迦の素晴らしい素質を知って後継者にと願ったが、覚りを得る道では無いとして辞した。
高僧に師事しても覚りを得ることができないので、ガヤー地区(ブッダガヤ/※ブッダが覚りを開いたガヤー地区というのが名の由来)で苦行を始めた。
この時代、苦しい修行によって覚りを得られると考えられていた為、厳しい断食行、呼吸を止める修行など、想像を絶する厳しい修行をした。
父の浄飯王は、釈迦の警護も兼ねて五人の沙門(のちの五比丘)にこの苦行を同行させた。

 釈迦はこの苦行を6年に亘り続けたが、己の満足を得られず、苦行の無意味を悟る。
 35歳になった釈迦は苦行の場所を離れ、尼連禅河(にれぜんが)の辺で、村の娘スジャ-タの差し出す乳粥(牛乳のお粥)を飲み、やせた体から体力を回復して菩提樹の下で禅定瞑想に入った。その際、五人の沙門は釈迦を堕落者と誹り彼のもとを去った。
菩提樹の下で瞑想をしていると、天の悪魔の大群が、刀や弓矢で脅し、あるいは美女が現れ誘惑するなど、瞑想を妨害しようとしたが、釈迦は妨害をものともせず瞑想を続け、ついに覚りに達し、仏陀となった。(成道 12月8日)
そこで座ったまま七日間、覚りの楽しみを味わい、さらに七日、さらに七日と場所を変えて覚り、解脱の楽しみを味わった。
さらに28日間、覚りの内容を衆生に伝えるか悩んだ結果、説いても理解するものは居ない。説くのをやめようとの結論に至る。
 そこに梵天が現れ。衆生に説くように繰り返し請い、(梵天勧請)3度目の勧請の末、
鹿野苑(サールナート)で修行していた、ともに苦行をした5人の沙門に覚りを説いた。(初転法輪)
釈迦を堕落者と誹っていた5人は説法を聞き覚りを得、比丘(五比丘)となった。

 釈迦は多くの長者や、富楼那(ふるな)や、優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)、那提迦葉(なだいかしょう)、迦耶迦葉(がやかしょう)
の三迦葉など多くの信者を持つ者達を教化し、仏教教団は千人を超える大きさになった。
マガダ国の王ビンビサーラも帰依し、竹林精舎を教団に寄付。舎利弗、目連、大迦葉なども帰依。さらに大きな教団となった。
 故国カピラ城も訪れ、王族の羅ご羅、阿難陀、阿那律、提婆達多も帰依した。
釈迦の教化・伝道の地域はガンジス河中流地域を主とし、アンガ、マガダ、ヴァッジ、マトゥラー、コーサラ、クル、パンチャーラー、ヴァンサなどに及ぶ。

 釈迦の故郷の釈迦国は大国コーサラ国に属していたが、王子・毘瑠璃王(ヴィルーダカ)が父王から王位を簒奪。
釈迦族に恨みを持つ新王は直ちに釈迦国へ攻めた。釈迦が故郷を憂い軍の道筋の樹の下で座り、三度に亘ってこの軍を阻止したが、四度目に因縁深く止め難きを悟り、コーサラ国の軍を見送り、釈迦国は攻略された。(仏の顔も三度まで)
毘瑠璃王は釈迦国を亡ぼした後、母国に帰ると、本来王位を継ぐ予定であった兄(生前祇園精舎を寄進)を殺害。
毘瑠璃王は釈迦国を亡ぼした七日後の祝宴中、雷に打たれ死亡。祝宴の場であった川辺に鉄砲水が起こり、毘瑠璃王の遺骸は海まで流され朽ち果てたという。

 その後釈迦は入滅するまで45年間にわたり、現在のインドとネパールにまたがる地域を旅しながら説法を行ってまわる、という生活をつづけた。
その間、地位や身分によらず多くの信者を集め、仏教を一大教団にまで築き上げた。

 80歳になった釈迦は、教団は弟子たちに任せ、阿難と二人で諸国を回り、法を説いていた。
この頃には教団も釈迦の手を離れ、釈迦自身が教団を導くことも、教団が釈迦に頼り切りになることもなくなっていた。
釈迦が最も長く滞在した王舎城(ラージャグリハ/マガダ国の首都)の霊鷲山から生まれ故郷の釈迦国へ向かったとき、
阿難に対し、「汝らは、自らを灯明とし、自らを拠り処として、他のものを拠り処とせず、法を灯明とし、法を拠り処として、他のものを拠り処にせず」
という「四念処」(四念柱)の修行を実践するよう説いた。
 旅の途中、マッラ国のパーパー(パーヴァー)にて、チュンダという鍛冶工に法を説き、「スーカラ・マッダヴァ」という食物の供養を受けた。
   ※「スーカラ」とは野豚、「マッダヴァ」とは柔らかいという意味。「野生の豚肉」あるいは「野豚の好むキノコ」など様々な解釈があるが、現在は「特殊なキノコを調理した料理」とする見解が優勢。
このスーカラ・マッダヴァに当たったのか、激しい下痢に襲われながら、クシナガラ(クシーナガル)に着く。
そこで釈迦の死期が近いことを知り、会いに来られたスバドラという行者に法を説かれ、このスバドラが最後の直弟子になる。
この地で二本並んだサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北にして横になられ、静かに息を引き取った。


入滅の前に阿難にチュンダに対し、仏の最期の食事を供養したのだから、素晴らしい功徳を積んだと伝言を残す。