由緒寺院

 日円山にちえんざん 妙法寺みょうほうじ

〒166-0013 東京都杉並区堀ノ内3-48-8  電話 03-3313-6241

 

 「厄除けのお祖師さま」で有名。古くから信仰を集める。

 元和(1615~1623)の頃、元真言宗の尼寺であったが、覚仙院日逕上人は老母妙仙院日圓法尼の菩提のため、日蓮宗に改宗し、 老母を開山とし、日逕上人自らは開基第二祖となられた。

 山号は開山日圓上人にちなみ日圓山とし、寺号を妙法寺と号した。

 給仕第一といわれた日郎上人は、伊豆へ流された日蓮聖人を案じ、生き別れた由比ヶ浜で毎日無事を祈念していると、 光り輝く霊木が聖人の去った沖の方から流れ着きました。この霊木に日蓮聖人のお姿を彫刻し、ご給仕を続けられると、 約壱千日(約三年)ののち、祈りは報い、聖人がお戻りになり、弟子の奉公に感謝し、自ら尊像開眼、魂を込められました。

 この時日蓮42歳であったことから、「厄除け日蓮大菩薩」と呼ばれるようになった。

 現在この「厄除け日蓮大菩薩」が祖師堂に奉安されている。


法華山ほっけざん 本興寺ほんこうじ

〒245-0018 神奈川県横浜市泉区上飯田町3624  電話 045-802-3151

 

 日蓮聖人が辻説法の際、休息された。また常陸の湯に湯治に出かける際にも、遺骨となって戻る際にも通過した寺。

 中老僧の一人天目が、日蓮鎌倉辻説法の際、休息された地であるところから、休息山本興寺を建立。

 日什門流の開祖・日什が2世となり、山号を法華山と改める。辻説法の由緒地に程近く、「辻の本興寺」とよばれた。


 明星山みょうじょうざん 妙純寺みょうじゅんじ

〒243-0807 神奈川県厚木市金田295  電話 046-221-5059

 

 厚木市内にある蓮生寺、妙伝寺とともに星下りと称し、本間六郎左衛門重連の邸宅跡と伝えられる。

 〔日蓮 星降りの霊験〕

 龍口の処刑を免れた日蓮聖人は、そのまま相模国愛甲郡依智村(現厚木市)の本間重連の館に送られることとなります。

 重連の館に到着した夜、日蓮聖人は庭に立って経文を誦えるとともに、天の月天子に向かって法華経の行者を守護しない理由を問いただしました。

 すると庭の梅の木に明星天子の姿となって現れて、これより先の守護を約束することになりました。

 またこれを見ていた警護の武士は、縁側から逃げ隠れするものが続出したということです。


 靖定山せいていざん 久昌寺きゅうしょうじ

〒313-0007 茨城県常陸太田市新宿町239  電話 0294-72-4888

 

 水戸光圀が母の久(法号 久昌院靖定大姉)の菩提を弔う為、建立。

 寺領は500石を有し、開山から6年後には僧侶の学校である三昧堂檀林が設けられ、盛時には3000人もの僧が学んでいた。

 幕末維新期の混乱期に旧久昌寺は荒廃。明治3年(1870)に旧久昌寺の末寺・蓮華寺があった場所に旧久昌寺もうつし、両寺院が併合して、現在の常陸太田市新宿町にある久昌寺となった。


 開本山かいほんざん 妙顕寺みょうけんじ

〒327-0843 栃木県佐野市堀米町264  電話 0283-22-1524

 

 永仁2年(1294) 中老僧天目が開創。

 中老僧天目上人が下野しもつけ安蘇郡あそぐん奈良渕村ならぶちむらで布教していたとき、唐沢城主の佐野家及び家臣が帰依して一宇を建立、永仁2年(1294)同上人を開山とし、開創した。

 将軍足利義教(よしのり)より寺領三百石の寄進を受けるなど発展を遂げ、その後、佐野家の祈願所となった。

 唐沢城の春日山移築にともない、その鬼門除けとして現在地に移った。


 常在山じょうざいさん 藻原寺そうげんじ

〒297-0026 千葉県茂原市茂原1201  電話 0475-22-3153

 

 建長5年、立教開宗された日蓮聖人は、清澄山を追われ藻原近くの笠森の観音堂で難を逃れた。

 土地の豪族、斎藤氏と一族の須田次郎時忠が同時に夢の中で観世音菩薩のお告げを聞き、日蓮大聖人を自邸に招き、教えを請い、邸内に一小堂を建立した。

 宗祖より「常楽山 妙光寺」と命名され、六老僧の日向が住持となったことから、日向門流の本寺として発展した。

 明治に入り寺号を藻原寺と改称。


 広栄山こうえいざん 妙覚寺みょうかくじ

〒299-5245 千葉県勝浦市興津1195-1  電話 0470-76-0339

 

 文永元年(1264)日蓮は興津領主佐久間兵庫頭重貞の招きにより、興津城内の持仏堂にて10日間の説法を行った(日蓮聖人10日間説法の霊場)。

 このとき重貞は日蓮に深く帰依し持仏堂を寄進し妙覚寺と号した。

 翌文永2年(1265)興津一帯に疫病が流行した際、日蓮が白布に南無妙法蓮華経の題目をしたため、船に曳かせて題目を唱えたところ、疫病が収まったと伝えられている。

 同年、重貞は子の長寿麿(後の美作房日保)を日蓮の弟子として出家させ、重貞の弟の竹寿麿(後の寂日房日家)も出家したという。


 真間山ままさん 弘法寺ぐほうじ

〒272-0826 千葉県市川市真間4-9-1  電話 047-371-2242

 

 奈良時代、天平9年(737)、法相宗の僧、行基がこの地の里の娘、手児奈の霊を供養する為に一宇の堂を建て、求法寺とした。

 弘仁13年(822)に弘法大師(空海)により、七堂伽藍に再建され、「求法寺」から「弘法寺」と改称された。

 建治元年(1275)に、時の住持、了性法印尊信りょうしょうほういんそんしんと、のちに中山法華経寺を創建する、富木常忍公ときじょうにんこうとの間に問答があり、報告を受けた日蓮聖人は六老僧の伊予房日頂上人いよぼうにっちょうしょうにんを対決に送り込んだ。
 その結果、日頂上人が法論に勝ったため、爾来、弘法寺は法華経の道場となり、日頂上人をしてご開山とすることとなった。


 長谷山ちょうこくさん 本土寺ほんどじ

〒270-0002 千葉県松戸市平賀63  電話 047-346-2121

 

 源氏の名家平賀家の屋敷跡に、領内の地蔵堂を移し法華堂とし、後に日蓮聖人より長谷山本土寺の寺号を授かった。

 池上の長栄山本門寺、鎌倉比企谷の長興山妙本寺と共に、朗門の三長三本と呼ばれ、宗門屈指の大山であった。

 この地より六老僧日朗、九老僧日像、日輪を輩出した。故に学問や、子授け子育て、乳出のご霊験で知られる。

 不受布施の法難と明治の廃仏毀釈により山容は衰退した。

 現在では境内に多くの紫陽花などの季節の木々、花々が植えられ、「あじさい寺」として観光、参拝者を多く集める。


 長崇山ちょうそうざん 妙興寺みょうこうじ

〒265-0053 千葉県千葉市若葉区野呂町738  電話 043-228-2099

 

 日蓮聖人の大檀越曽谷入道教信の子である曽谷四朗左衛門直秀が出家して道崇と号し、建治元年(1275)、法華の道場を開いたとされる。

 身延より中老僧・大受阿闍梨日合上人が遣わされ、開堂供養を行い開山とした。

 檀林(僧の学問所)の設立には諸説あるが、慶長の初頭頃、または寛永七年(1630)に不受論(身池対論)後、中妙院日観上人を池上より迎え、「野呂檀林」(談所)を開設した。

 当時としてはまれにみる大講堂を有し、全国から学僧が集まり隆盛をきわめた。

 しかし不受布施の弾圧及び火災で閉講になったとされる。


 正東山しょうとうざん 日本寺にちほんじ

〒289-2257 千葉県香取郡多古町南中1820-1  電話 0479-76-3745

 

 関東三大檀林のひとつと称された中村檀林の開かれた寺。

 当檀林から奠師法縁、親師法縁(精師法縁、貞師法縁)、達師法縁、境師法縁、要師法縁、莚師法縁の七法縁が発生した。

 元応元年(1319)法華経寺・日祐は千葉胤貞より、土地の寄進を受け、高祐山東福寺を建立。

 天正19年(1591)正東山日本寺と改称。

 慶長4年(1599)妙福寺・日円が中村檀林を開檀。


 妙高山みょうこうさん 正法寺しょうぼうじ

〒299-3253 千葉県山武郡大網白里町小西755  電話 0475-72-1783

 

 小西檀林が開かれ、廃檀まで290余年間隆盛を極めた。小西檀林、飯高檀林、中村檀林とともに「関東三大檀林」と称された。最盛期には学僧900余人が学んでいたと記録が残る。

 長禄2年(1458)原胤継は本土寺・日意を招いて、正法寺を建立。

 天正10年(1582)飯塚檀林・日裕は、小西檀林を開檀。


 大野山おおのさん 本遠寺ほんのんじ

〒409-2532山梨県南巨摩郡身延町大野839  電話 0556-62-0036

 

 慶長14年(1609)、徳川家康の側室として知られる養珠院(お万の方)が堂宇を建立し、当地(身延町大野)に隠棲していた久遠寺22世心性院日遠上人を招いて開山したのが始まり。

 養珠院は死後、遺言により本遠寺に埋葬された。

 慶長13年(1608)江戸城で行われた浄土宗と日蓮宗との宗論(慶長宗論)において、日蓮宗は敗者となった。

 徳川家康は日蓮宗各本山に誓状の提出を求めたが、日遠はこれを拒み、謀反人として処刑されそうになる。

 日遠に帰依していた養珠院の歎願によって減刑を受け、日遠は隠棲した。

 隠棲した大野の庵が本遠寺となる。


 徳栄山とくえいざん 妙法寺みょうほうじ

〒400-0512 山梨県南巨摩郡増穂町小室3063  電話 0556-22-0034

 

 前身は持統天皇7年(693)に役行者による開祖伝承を持つ真言宗寺院であった仁王山護国院金胎寺で、現在でも真言宗寺院であったことを示すおいが残されている。

 鎌倉時代の建治元年当時に住職であった善智法印が日蓮と法論して敗れ弟子となり、日蓮宗に改宗するとともに日伝と称した。

 日蓮聖人が入山した身延山の程近く富士川町の小室山に真言宗の寺院があり、関東一円の真言の寺院を治めるほどの古刹であった。

 その住職、善智法印は日蓮の噂を聞きつけ、法論を挑むも適わず、法力で対決を挑む。

 善智法印が法力で大石持ち上げると、日蓮は法力でこれを宙に留める。善智法印はこれを動かすことができず、法力対決でも敗れてしまう。

 善智法印は悔しさのあまり日蓮を毒殺しようと、これも身延山から近い真言の寺、上澤寺の住職、法喜と結託し、小室山からの帰路、日蓮が上澤寺に立ち寄った際、毒入りのぼた餅を差し出した。

 日蓮がこれを食べようとすると白い犬が現れ、食べたそうに見ているので、日蓮はこの白犬にぼた餅をあげたところ、白犬はたちまち絶命してしまった。

 日蓮の不思議なご加護を前に、毒殺を試みた二人は懺悔し、日蓮に帰依した。

 法力対決で持ち上げられた大石は、現在は法論石として妙石山懸腰寺にある。

 日蓮は白犬を憐れんで持っていた銀杏の杖を墓標として刺したところ、不思議なことにこれが根付き、今も上澤寺にはこの銀杏の巨木が生え、逆さ銀杏と呼ばれている。


 貞松山ていしょうざん 蓮永寺れんえいじ

通称 三松みまつ 蓮永寺

〒420-0816 静岡県静岡市沓谷2-7-1  電話 054-245-1536

 

 文永11年(1274) 六老僧・日持上人により現在の富士川町に開創された。

 その後、長い年月の間に衰退したが、日蓮宗の熱心な信者であった徳川家康の側室・お万の方の発願により、元和元年(1615)、駿府城鎮護の寺として現在の沓谷くつのやに移し、再興された。


 青龍山せいりゅうざん 本覚寺ほんがくじ

〒422-8005 静岡県静岡市池田1379  電話 054-262-3478

 

 中老僧日位上人開山。

 日位上人は俗姓は南条氏で、六老僧日持上人の門下になったが、後に日蓮に師事した。

 大聖人の葬儀にも参列し、輪番墓所守にも名を連ねている。

 日位上人の祖母、妙位日禅尼はきわめて篤信であり、伊豆流罪中にまだ幼い日位を伴い訪れ、身延在山中は、しばしば登詣して米、野菜などの供物を贈った。

 日蓮聖人は、日禅尼の篤い志に、健治3年(1277)『盂蘭盆御所』と『十界曼荼羅己心本覚本尊(一幅)』を授与。

 この本尊に因んで「本覚寺」と名付けられた。


 大成山たいじょうざん 本立寺ほんりゅうじ

〒410-2142 静岡県伊豆の国市韮山金谷268-1  電話 055-949-2656

 

 弘長元年(1261)、伊豆(伊東)に流されていた日蓮が、十六代当主江川太郎左衛門英親に招かれ教化を行ったところ。

 英親は身延山へ登り日蓮より「優婆塞日久」の法号を授けられ、御真筆の曼荼羅・祖師像を授かった。

 永正三年(1506)六月江川家二十四代目英盛公が邸内にあった大乗庵を当地に移し本立寺を建立した。


 東光山とうこうざん 實成寺じつじょうじ

〒410-2508 静岡県伊豆市柳瀬353  電話 0558-83-0318

 

 正安3年(1301)日尊上人により開山。

 日興の法脈を継承する富士門流に属し、北山本門寺、西山本門寺、大石寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、京都要法寺、保田妙本寺と合わせて「興門八本山」のひとつ。

 實成寺は富士門流の統一教団日蓮宗興門派の結成に参加し、後に興門派は日蓮本門宗(本門宗)と改称する。

 昭和16年(1941)本門宗、顕本法華宗、日蓮宗の三派による三派合同を行い、現在の日蓮宗を結成した。


 富士山ふじさん 久遠寺くおんじ

〒418-0022 静岡県富士宮市小泉1649  電話 0544-26-3408

 

 建武元年(1334)に、六老僧日興上人の高弟・宰相阿闍梨日郷が、小泉蓮蔵坊(小泉久遠寺)を創建したのが始まりとされている。

 日興の法脈を継承する富士門流に属し、北山本門寺、西山本門寺、大石寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、京都要法寺、保田妙本寺と合わせて「興門八本山」のひとつ。

 久遠寺は富士門流の統一教団日蓮宗興門派の結成に参加し、後に興門派は日蓮本門宗(本門宗)と改称する。

 昭和16年(1941)本門宗、顕本法華宗、日蓮宗の三派による三派合同を行い、現在の日蓮宗を結成した。


 龍水山りゅうすいさん 海長寺かいちょうじ

〒424-0926 静岡県静岡市清水区村松299054-334-1959

 

 平安朝の仁寿2年(852)有渡山八ツ原に創建された天台宗の古刹で、村松山峨岳寺と称した。

 鎌倉時代の文永9年(1272)に日蓮聖人の弟子、中老僧日位上人が当地を弘教し、当時の寺主慈証尊者を帰伏せしめてから本化門下となる。

 慈証は日受と法号を改め、日位上人を開基と仰いだ。山寺号も龍水山海上寺と改称したが、後に故あって海長寺と改めたのは、徳川期に入ってからのことである。


 経王山きょうおうざん 妙法華寺みょうほっけじ

〒411-0014 静岡県三島市玉沢1  電話 055-975-6111

 

 弘安7年(1284)12月、越後の風間信昭により、鎌倉の浜にあった日昭上人の庵室(あんしつ)を寺としたのが起源である。

 日昭上人は、宗祖の比叡山遊学中の学友であったが、聖人に共鳴し、宗祖が鎌倉で法華経弘通を始めるとすぐ最初の弟子となった。

 鎌倉の浜土に草庵を構え、宗祖や他の門弟と共に教化活動を行い、その後、宗祖が身延に人山すると、日朗上人とともに鎌倉の日蓮教団の中心的役割を果たした。

 一門を日昭門流とか浜土門流と称し、近代は玉沢(たまざわ)門流と呼んだ。


 本立山ほんりゅうざん 玄妙寺げんみょうじ

〒438-0086 静岡県磐田市見付町2440-1  電話 0538-32-4226

 

 会津妙法寺、会津妙國寺、品川本光寺、品川天妙國寺、飯田本興寺、吉美妙立寺、京都寂光寺と合わせ日什門流八別格本山のひとつ。

 日什得道の寺と称し、転法輪の寺妙満寺、涅槃の寺妙法寺と共に什門三本山と称される。

 什門の名刹として、戦前に至るまで顕本法華宗本山であったが、同宗は政府の意向により1941年の日蓮宗、本門宗と合同した。(三派合同)

 戦後再独立派の大本山妙満寺、本山妙法寺、本山天妙國寺、本山寂光寺等200箇寺が宗派離脱したものの、身延残留派は日蓮宗に残り、玄妙寺は什門四本山(妙國寺、本興寺、玄妙寺、妙立寺)の一つとなる。

 日蓮宗に残留した180箇寺は宗内で「日蓮宗什師会」を組織している。


 延兼山えんけんざん 妙立寺みょうりゅうじ

〒431-0441 静岡県湖西市吉美2745  電話 053-576-0527

 

 会津妙法寺、会津妙國寺、品川本光寺、品川天妙國寺、飯田本興寺、見附玄妙寺、京都寂光寺と合わせ日什門流八別格本山のひとつ。

 什門の名刹として、戦前に至るまで顕本法華宗本山であったが、同宗は政府の意向により1941年の日蓮宗、本門宗と合同した。(三派合同)

 戦後再独立派の大本山妙満寺、本山妙法寺、本山天妙國寺、本山寂光寺等200箇寺が宗派離脱したものの、身延残留派は日蓮宗に残り、妙立寺は什門四本山(妙國寺、本興寺、玄妙寺、妙立寺)の一つとなる。

 日蓮宗に残留した180箇寺は宗内で「日蓮宗什師会」を組織している。


 金栄山きんえいざん 妙成寺みょうじょうじ

〒925-0002 石川県羽咋市滝谷町ヨ-1  電話 0767-27-1226

 

 日蓮聖人の孫弟子、九老僧の日像が京都へ向かう途中、石動山天平寺の満蔵法印が日像の弟子となり、日像を招き石動山で説法したところ、衆徒の反発を受け滝谷に身を寄せた。

 日像は鎌倉より携えていた槐の杖を地面に挿し、「この杖より根が生ずるなら、汝この地に法華の寺を建立すべし」と満蔵法印に言い残して京都に向かった。

 まもなく杖より根が生え始めたので、満蔵法印は日乗と名を改め、開山を日像、自らを第二祖として妙成寺を建立した。

 江戸時代になると、妙成寺は加賀藩前田家から手厚い加護を受け、三代藩主利常の母寿福院の菩提寺として七堂伽藍を寄進されるなど隆盛を極めた。


 白雲山はくうんさん 報恩寺ほうおんじ

〒640-8137 和歌山県和歌山市吹上1-6-38  電話 073-422-9446

 

 慶長14年(1609)頃、要行院日忠上人が一宇を創立し、要行寺と称したことに始まる。

 寛文6年(1666)に亡くなられた、紀州藩祖徳川頼宣の夫人で、加藤清正の五女、八十姫こと瑤林院を、夫人の愛した城南吹上の地、要行寺に葬った。

 寛文9年(1669)に2代光貞が、母の追福のため舎弟の小西檀林能化・従三位日順上人を招請し、大石宝塔、諸堂を建立し、瑤林院の詩にちなみ、白雲山報恩寺と山寺号を改め、寺領250石を受け、紀州家の菩提所となり、大いに栄えた。


 具足山ぐそくさん 妙覚寺みょうかくじ

〒602-0007 京都府京都市上京区下清蔵口町135  電話 075-441-2802

 

 永和4年(1378)、日実によって創建された。実質的な創立者は日実であるが、妙覚寺では日像を開山、日実を4世としている。

 織田信長が上洛の際、宿として度々使っており、本能寺の変の際には嫡男信忠の宿舎であったが、この変においても妙覚寺は無傷であった。

 具足山龍華院妙顕寺、具足山北龍華院妙覚寺、具足山西龍華院立本寺の三寺で「龍華りゅうげ三具足みつぐそく」と呼ばれている。


 広布山こうふさん 本満寺ほんまんじ

〒602-0802 京都府京都市上京区鶴山町16  電話 075-231-4784

 

 応永17年(1410)本圀寺から分立し、六老僧の一人日持を崇敬開山として玉洞妙院日秀が開基。

 天文8年(1539)後奈良天皇の勅願寺となる。

 万治4年(1751)徳川吉宗の病気平癒を祈願し、幕府祈願所となった。


 叡昌山えいしょうざん 本法寺ほんぽうじ 

〒602-0061 京都府京都市上京区本法寺前町617  電話 075-441-7997

 

 永享8年(1436)日親が本阿弥清信の帰依を得て創建。

 日親上人は応永14年(1407)-長享2年(1488)の上総国生まれの日蓮宗の僧。

 京都一条戻橋で辻説法をはじめたが、比叡山延暦寺や将軍家の帰依を受けていた臨済宗などの他宗派から激しい弾圧を受けた。

 また、足利将軍家の日蓮宗への改宗を目論み、永享12年(1440年)『立正治国論』を著して直訴を試みたが、投獄。

 舌先を切り取られたり、真っ赤に焼けた鉄鍋を頭に被せられるなどの拷問を受けた。この鍋は伝承では終生頭から取れることはなかったといわれる。

 逸話より、「鍋かぶり上人」「鍋かぶり日親」等と呼ばれた。


 具足山ぐそくさん 立本寺りゅうほんじ

通称 北野きたの鬼子母神きしもじんさま

〒602-8345 京都府京都市上京区一番町107  電話 075-461-6516

 

 龍華樹院りゅうげじゅいん日像にちぞう開山の具足山妙顕寺を起源とする。

 比叡山衆徒により度々伽藍を破却され、移動再建した。

 その際に「妙本寺」(のちに妙顕寺に復称)「本応寺」の二寺に分かれて再建されたが、この本応寺が立本寺に改称した。

 具足山龍華院妙顕寺、具足山北龍華院妙覚寺、具足山西龍華院立本寺の三寺で「龍華りゅうげ三具足みつぐそく」と呼ばれている。


 瑞龍寺ずいりゅうじ ※山号はない

別称 村雲御所むらくもごしょ

〒523-0828 滋賀県近江八幡市宮内町19-9  電話 0748-32-3323

 

 豊臣秀吉の養子で一度は家督を相続した秀次は、秀吉に嫡子秀頼が誕生すると、強制的に出家させられ、そののち切腹となった。

 他の一族も処刑や流刑となり、残された母・日秀尼(瑞龍院日秀・通称村雲尼うんそうに)は我が子の追善の為、嵯峨の村雲に日蓮宗の寺院を開いた。

 このときの村雲の寺地と「瑞龍寺」の寺号、寺領千石を後陽上天皇から賜り、瑞龍寺は日蓮宗寺院唯一の門跡寺院となった。 


 聞法山もんぽうざん 頂妙寺ちょうみょうじ

〒606-8376 京都府京都市左京区仁王門通川端東入大菊町96  電話 075-771-0562

 

 文明5年(1473)檀越の細川勝益から寺地の寄進を受け、下総国出身の僧、日祝によって創建。

 当時の寺地は南は四条通、北は錦小路通、西は万里小路(現在の柳馬場通)、東は富小路通に至る地で、現在の京都市下京区と中京区にまたがる。

 その後、移転を繰り返し、天文法華の乱では他の法華宗寺院とともに消失し、堺に避難した。

 天文11年(1542)、後奈良天皇は法華宗帰洛の綸旨を下し、頂妙寺は同年、高倉中御門の旧地に伽藍を再建した。


 法鏡山ほうきょうざん 妙伝寺みょうでんじ

別称 西身延

〒606-8352 京都府京都市左京区北門前町481  電話 075-771-2088

 

 文明9年(1477)、円教院日意によって京都一条尻切屋町の地に妙伝寺を建立。

 開創にあたり宗祖の日蓮の御真骨を奉安し、同時に身延七面山に勧請されている七面天女と同木同体の霊体を安置し、これをもって「西身延」と称された。


 広普山こうふさん 妙國寺みょうこくじ

〒590-8151 大阪府堺市堺区材木町東4丁目1-4  電話 072-233-0369

 

 正親町天皇の永禄11年(1568)に、当時畿内を支配していた三好氏家臣・三好之康(実休)の帰依を受け、日珖の父、兄が協力して東西三丁南北五丁の土地を寄進し、広普山妙國寺と称し、皇室より勅願所と定めた。

 幕末に起こった堺事件(慶応4年2月15日(1868)に和泉国堺町内で起きた、土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件。)ゆかりの寺として知られる。


 自昌山じしょうざん 國前寺こくぜんじ

〒732-0048 広島県広島市東区山根町32-1  電話 082-261-4578

 

 尾長山(二葉山)麓で庵を営んでいた暁忍が日像に師事、暦応3年(1340)「暁忍寺」として開山した。

 明暦2年(1656)広島藩浅野家2代藩主浅野光晟正室の満姫(加賀藩主前田利常の三女)の帰依により浅野家の菩堤寺となり、現名の「國前寺」に改名した。

 昭和20年(1945)8月6日広島市への原子爆弾投下により被爆。ここは爆心地から約2.6kmに位置した。爆風により建物は北東方向に傾いたが倒壊は免れた。

 境内には多くの被爆者が避難し、大日本帝国海軍による救護所が設けられた。


 松尾山まつおざん 光勝寺こうしょうじ

〒845-0004 佐賀県小城市小城町松尾4421  電話 0952-73-7555

 

 文保元年(1317)下総の国(今の千葉県)の地頭であった千葉胤貞公が、幕府の代官として九州探題の職を任命された時、中山法華経寺の三代目の住職であった日祐上人に、この大役の無事の祈願依頼。無事に大役を果たすことができた。

 その功績により胤貞公は幕府より肥前の国を賜り、現在地にお寺を建立し、日祐上人を開山とした。

 千葉家の外護により14世智観院日円までは中山法華経寺と両山一主制であった。

 永享5年(1433)法華経寺より光勝寺専任住職として赴いた日親が中興した。

 元和3年(1617)には、後水尾天皇より「護国光勝寺」の勅額を拝領した。


 蓮華王山れんげおうざん 妙宣寺みょうせんじ

〒952-0303 新潟県佐渡市阿仏坊29  電話 0259-55-2061

 

 日蓮の弟子阿仏房日得が自宅を寺として開基した日蓮宗佐渡三本山のひとつ。

 開山の阿仏房日得上人は、その妻千日尼とともに日蓮聖人に帰依し、日蓮聖人在島中はよく給仕の誠を捧げ、身延隠棲後も三度もはるばる聖居を訪ねて給仕された。

 日蓮聖人直筆の曼荼羅や御消息をはじめ、上足日興上人の曼荼羅・定置状、二祖日満上人筆の曼荼羅、日野資朝の写経など多数の重文・重宝が蔵されている。


 法王山ほうおうざん 妙法寺みょうほうじ

〒949-4522 新潟県長岡市村田1124  電話 0258-74-2207

 

 徳治元年(1306)日昭が鎌倉名瀬(現在の横浜市戸塚区名瀬)に妙法寺を創建する。

 元亨3年(1323)北越の地に法華の道場が無いことを憂いていた日昭の遺命により、北越布教の拠点として風間信昭の領内の村田に妙法寺を移転した。


 宝光山ほうこうざん 妙国寺みょうこくじ

〒965-0003 福島県会津若松市一箕町八幡字墓料78  電話 0242-25-3337

 

 応永元年(1394)日什の誕生地であり墓所である当地に弟子の日仁が開創。

 什門の名刹として、その後、戦前に至るまで顕本法華宗本山であった。

 昭和16年(1941)日蓮宗、本門宗と合同した。(三派合同)

 顕本法華宗は戦後再独立派の大本山妙満寺、本山妙法寺、本山天妙國寺、本山寂光寺等200箇寺が分離したものの、身延残留派は日蓮宗に残り妙國寺は什門四本山(妙國寺、本興寺、玄妙寺、妙立寺)の一つとなる。

 日蓮宗に残留した180箇寺は宗内で「日蓮宗什師会」を組織している。

 戊辰戦争のとき、会津藩主松平容保が降伏、容保父子が一カ月間入寺謹慎した寺である。

 また飯盛山で自刃した白虎隊士の遺体を最初に葬った所でもある。


 光明山こうみょうざん 孝勝寺こうしょうじ

〒983-0852 宮城県仙台市宮城野区榴岡4-11-11  電話 022-256-5402

 

 日蓮宗の最北の本山。開山は、中老僧 一乗阿闍梨日門上人で大仙寺として開かれる。

 伊達政宗公、忠宗公、綱宗公、綱村公、吉村公と伊達家庇護のもと、伊達家一門格の寺院となった。

 伊達政宗公が出陣する際に、当山で戦勝を祈願したところ沢山の武勲をあげることが出来たことから、縁起の良い寺として大仙寺だった寺号をから「全勝寺」と改めた。

 万治2年2月5日 2代忠宗公 正室 振子姫は、52歳で他界。法名 孝勝院殿秀岸日迅大姉と号し、その法号を以て現在の孝勝寺となる。


 妙厳山みょうごんさん 本覚寺ほんがくじ

別称 東身延ひがしみのぶ

〒248-0006 神奈川県鎌倉市小町1-12-12  電話 0467-22-0490

 

 本覚寺のある地は、源頼朝が鎌倉幕府の開幕の際に、幕府の裏鬼門(南西)にあたる方向の鎮守として建てた天台宗系の夷堂えびすどうがあった所。

 佐渡配流から帰った日蓮が一時、この夷堂に滞在し、辻説法などの拠点としていた。

 永享8年(1436)に一乗院日出が日蓮にゆかりの夷堂を天台宗から日蓮宗に改め本覚寺を創建した。

 後に身延山を再興した第2世の行学院日朝は、身延山への参詣が困難な者のために、身延山より日蓮の遺骨を分骨して本覚寺に納めたので、「東身延」とも呼ばれる。


 長崇山ちょうそうざん 本行寺ほんぎょうじ

通称 大坊だいぼう

〒146-0082 東京都大田区池上2-10-5  電話 03-3752-0155

 

 日蓮聖人入滅の地。身延山久遠寺、小湊誕生寺とならび、大聖人三大聖地の一つとされている。

 日蓮聖人は身延より常陸の湯へ湯治に向かう途中、鎌倉幕府の作事奉行であった池上宗仲公いけがみむねなかこうの館でお休みになられたが、10月13日辰の刻(午前8時)入滅された。この時、大地は揺れ動き、庭の桜が一度に時ならぬ花をつけたという。

 日蓮聖人がご入滅された池上家の仏間跡に建てられたお堂は、「ご臨終の間」と呼ばれ、昭和11年(1936)東京都の史跡に指定された。

 聖人ご入滅時に時ならぬ花を咲かせた桜は、今も「おしきざくら」として敷地内に現存しており、旧暦10月頃に花を咲かせる。


 慈雲山じうんざん 瑞輪寺ずいりんじ

〒110-0001 東京都台東区谷中4-2-5  電話 03-3821-4373

 

 開山は慈雲院日新上人。開基大檀越は徳川家康公。

 日新上人は身延山の第17世を継承された方で、徳川家康公が幼少の頃の学問師範であった。

 家康公天下統一ののち、天正19年(1591)旧恩に報い、日本橋に身延山久遠寺の布教所として瑞輪寺を創建。

 火災などによる二度の移転を経て、谷中に再建され現代に至る。