●日昭(にっしょう)
日昭(嘉禎2年(1236年)? - 元亨3年3月26日(1323年5月1日))は、
鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。俗姓は印東氏で、池上宗仲とは親戚関係にある。
日昭門流・浜門流の祖。日蓮六老僧の一人。字は大成弁。弁阿闍梨とも称される。下総国の出身。
生年については、師の日蓮より年長で1221年とする説もある。
初め天台宗の僧であったが、のちに日蓮に師事して改宗し、日蓮が配流となっている間も鎌倉を離れず師日蓮の説を広めた。
天台宗的な色彩を残しながらも、鎌倉浜土の法華寺を拠点として布教を行った。
鎌倉幕府の弾圧に対しては自らは天台沙門徒と称するなど臨機応変に対応している。
1306年(徳治元年)には越後国風間氏の庇護により相模国鎌倉に妙法寺(その後越後国に移転)を建立している。
晩年比叡山戒壇と関係を持っていたことから、この派にはその影響が残された。
現在の日昭門流(濱門)の本山は妙法華寺と村田妙法寺。
●日朗(にちろう)
日朗(1245年5月5日(寛元3年4月8日) - 1320年3月1日(元応2年1月21日))は、
鎌倉時代の日蓮宗・法華宗の僧。日蓮六老僧の一人。号は筑後房。大国阿闍梨とも称する。
日朗門流・池上門流・比企谷門流の祖。下総国の出身。父は平賀有国。
1261年(文応2年)日蓮を師として法を学んだ。
1271年(文永8年)日蓮の流罪の際、土牢に押込となる。
1274年(文永11年)佐渡に流罪となっていた日蓮を8回訪ね、赦免状を携えて佐渡に渡る。
1282年(弘安5年)池上宗仲の協力のもと、池上本門寺の基礎を築いた。
1309年(延慶2年)千葉胤貞の妻より、土地の寄進を受け、本土寺を建立する。
1320年(元応2年)安国論寺にて荼毘に付され、法性寺に葬られた。
●日興(にっこう)
日興(寛元4年3月8日(1246年3月26日) - 元弘3年/正慶2年2月7日(1333年2月21日))は、
鎌倉時代の僧侶。日蓮の高弟六老僧の一人であり、白蓮阿闍梨と称する。日興門流の祖。
富士大石寺の開山にして、日蓮正宗第二祖に列せられる 。
1258年(正嘉2年)日蓮の弟子になる。日蓮流罪の際には同行したともいわれる。
●日向(にこう)
日向(建長5年2月16日(1253年3月16日) - 正和3年9月3日(1314年10月12日))は、
日蓮六老僧の一人。佐渡公日向、また後には民部阿闍梨日向(みんぶあじゃりにこう)、安立院とも名乗った。
現在の日蓮宗の宗史上においては、総本山身延山久遠寺第二世に列せられている。
安房国の尾金に生まれ、13歳で日蓮に入門して出家得度してからは、折伏弘教のため日々各地に奔走した。
弁舌に優れ、日蓮門下の「論議第一」と称された。
1276年、日蓮の使者として、日蓮の旧師道善房の墓前に赴き、日蓮による旧師追悼のための著述『報恩抄』を朗読するという大役を務めた。
1280年には日蓮より本尊を授与され、同年、日蓮による法華経講義の記録『御講聞書』を著した。
日蓮の本弟子六老僧の一人として、日興筆の『宗祖御遷化記録』に「佐土公 日向」とその名を確認することができる。
1313年、日向は身延山別当の地位を日進に譲り、上総国の藻原に隠居するも、その翌年に62歳で死去した。
◆宗祖入滅時、不在であった日向・日頂を除く四老僧と居合わせた中老僧とが合議し、
日蓮の墓所を六老僧と中老僧12名の計18名で墓所を輪番で守る事になったが、それが守られることはなく、
日興が身延に近い富士地域を本拠地にしていたことから、日興が身延に常住するようになる。
南部実長(身延山地頭、久遠寺を寄進。出家し日円。)は日興常住に喜び久遠寺別当職に就くよう要請するも、
輪番にこだわる日興はこれを断り、他五老僧に書簡を送るが、各地での布教に多忙であった他の老僧はこれに応じなかった。
この呼びかけに日向がようやく応じ、身延に登る。他の老僧が輪番を無視し続ける中、実長の要請により日向は身延の学頭職に就く。
輪番にこだわる日興はこれに不満を持ち、日向との教義の相違もあり、日興・日向の不仲が決定的になり、
日興は身延を離れ、富士に大石寺を建立。学頭となった。(のちの日蓮正宗)
日興が身延を離山したのち、日向は実長の要請により身延山別当職に就いた。
●日頂(にっちょう)
日頂(建長4年(1252年)- 文保元年3月8日(1317年4月19日))は、鎌倉時代後期の日蓮宗の僧。
俗姓は南条氏。駿河国の出身。伊予阿闍梨と称される。日蓮六老僧の一人。
日蓮の有力な檀越である下総国八幡荘若宮(現在の千葉県市川市若宮)の富木常忍(日常)の養子となり、幼くして日蓮に師事した。
日蓮の佐渡配流の際にも日蓮に従って奉仕している。身延山では本圀院山本坊を創り日蓮の墓所の輪番に参加している。
下総国真間(現在の千葉県市川市真間)の弘法寺を拠点として布教につとめた。
1293年(永仁元年)養父常忍と対立し、晩年は故郷駿河国の日興のもとに赴き、重須本門寺の学頭となった。本門寺の近くの正林寺に墓所がある。
●日持(にちじ)
日持(建長2年(1250年) - 没年不詳)は、鎌倉時代中期から後期にかけての日蓮宗の僧。
駿河国松野の出身。甲斐公・蓮華阿闍梨と称する。日蓮六老僧の一人。駿河国蓮永寺の開山。
初め駿河国蒲原の天台宗寺院四十九院で日興に師事して、天台教学を学んだが日興とともに追放され、日蓮に師事した。
日蓮の没後は日興と不和となり、1288年(正応元年)日浄とともに願主となって武蔵国池上本門寺に祖師像を安置した。
彼は新潟から秋田、青森、函館、松前、江差を経て渡樺し、本斗郡好仁村の白主、
1295年(永仁3年)樺太の本斗郡本斗町阿幸に上陸した後、北樺太の落石(オッチシ)から海外布教を志し満洲に渡ったとも、蝦夷地で没したともいう。