霊跡本山

【祖山】総本山
 身延山(みのぶさん)妙法華院(みょうほっけいん)久遠寺(くおんじ)

 〒409-2524 山梨県南巨摩郡身延町身延3567  電話 0556-62-1011

 

 日蓮宗の総本山。日蓮聖人が晩年の9か年を過ごした場所。日蓮聖人の御廟所も身延山にある。

 文永11年(1274)甲斐国波木井(はきい)郷の地頭南部六郎実長(波木井実長)が、西谷の地に草庵を構え、佐渡での流刑を終えて鎌倉に戻った日蓮を招いた。

 弘安4年(1281)に十間四面の大坊が整備され、日蓮によって「身延山妙法華院久遠寺」と名付けられた。

 日蓮聖人の本弟子である六老僧の一人、日向(にこう)上人とその門流によって継承され、 第11世日朝上人により、狭く湿気の多い西谷から現在の地へと移転され、伽藍(がらん)の整備がすすめられた。

 のちに、武田氏や徳川家の崇拝、外護(げご)を受けて栄え、1706(宝永3)年には、皇室勅願所ともなっている。

 


【霊跡】 大本山
 長栄山(ちょうえいざん)大国院(だいこくいん)本門寺(ほんもんじ)
 〔通称〕池上(いけがみ)本門寺

〒146-8576 東京都大田区池上1-1-1  電話 03-3752-2331

 

 日蓮聖人最期の地となった池上氏の館跡地。

 弘安5年(1282)9月8日、病身の日蓮は身延山を出て、湯治のために常陸(茨城県)へ向かう。

 9月18日に武蔵国池上郷(東京都大田区池上)の池上宗仲の館に到着。生涯最後の20数日間を過ごすこととなる。

 同年同月に、池上氏館の背後の山上に建立された一宇を日蓮が開堂供養し、長栄山本門寺と命名した。

 同年10月13日に日蓮が没すると、池上宗仲は法華経の字数(69,384)に合わせて六万九千三八四坪を寺領として寄進し寺院の基礎が築かれ、 以来「池上本門寺」と呼びならわされている。その後は日蓮の弟子・日朗が本門寺を継承した。


【霊跡】大本山
 小湊山(こみなとさん)誕生寺(たんじょうじ)

〒299-5501 千葉県鴨川市小湊183  電話 04-7095-2621

 

 日蓮の誕生を記念して出身地に建立した寺院。

 建治2年(1276)10月、日蓮の弟子の日家が日蓮の生家跡に高光山日蓮誕生寺として建立。

 しかし明応7年(1498)の明応地震、元禄16年(1703)の元禄地震と2度の大地震、大津波により現在地に移転された。現在、生家跡伝承地は沖合いの海中にある。

 その後、26代日孝が水戸光圀の外護を得て七堂伽藍を再興し、小湊山誕生寺と改称した。


【霊跡】大本山
 千光山(せんこうざん)清澄寺(せいちょうじ)

〒299-5505 千葉県鴨川市清澄322-1  電話 04-7094-0525

 

 日蓮が出家得度および立教開宗した元天台宗寺院。
 旅の僧(聖僧)が当地を訪れて虚空蔵菩薩を祀る一寺を建立し、山岳信仰の霊場となったという。

 僧の素性は不明で、「不思議法師」と呼ばれた。

 山頂近くに古い柏の木があり怪しく千光を発していたことから山号を千光山とし、柏の木の下に水の涸れた池があって、加持すると清泉がたちまちに沸いたことから寺号を清澄寺としたという。

 開山(宝亀2年/711年)は天台宗寺院であったが、元和4年(1618)真言宗に改宗。さらに昭和24年(1949)日蓮宗に改宗。


【霊跡】

 小松原山(こまつばらさん)鏡忍寺(きょうにんじ)

〒296-0044 千葉県鴨川市広場1413  電話 04-7092-0604

 

 小松原法難の跡地に建てられた、霊跡本山。

 日蓮が、東条景信に襲撃され、同行の鏡忍坊日暁と共に天津(現在の鴨川市)の城主工藤吉隆が討たれた。(小松原法難)

 弘安4年(1281)小松原法難の地に、工藤吉隆の子、日隆が日蓮の命により建立。妙隆山と号す。

 後に鏡忍坊の名に因み小松原山鏡忍寺と改める。


【霊跡】

 寂光山(じゃくこうさん)龍口寺(りゅうこうじ)

〒251-0032 神奈川県藤沢市片瀬3-13-37  電話 0466-25-7357

 

 龍口法難の跡地に建てられた、霊跡本山。

 日蓮が入滅の後、直弟子の日法聖人が、延元二年(1337)に「龍ノ口法難の霊跡」として、一堂を建立し、自作の日蓮聖人像と、首の座の敷皮石(罪人の座るところ)を安置した。


【霊跡】

海光山(かいこうざん)仏現寺(ぶつげんじ)

〒414-0025 静岡県伊東市物見が丘2-30  電話 0557-37-2177

 

 弘長元年に日蓮が鎌倉より伊豆流罪となり3年過ごした元毘沙門堂。

 地頭伊東祐光の病を治したことから祐光が帰依。当地伊東家毘沙門堂に居住。

 祐光は海中出現の釈迦立像を献上し、日蓮はこれを随身仏として終生奉持した。


【霊跡】大本山
 具足山(ぐそくさん)妙顕寺(みょうけんじ)

〒602-0005 京都府京都市上京区寺ノ内通新町西入妙顕寺前町514  電話 075-414-0808

 

 日蓮の遺命を受け、京都布教中の日像が後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立。勅願寺となる。

 京都における法華宗の根本をなす寺院となった。

 妙顕寺、妙覚寺、立本寺(三寺共に山号が具足山)の三寺で「龍華の三具足(りゅうげのみつぐそく)」と呼ばれている。


【霊跡】大本山
 大光山(だいこうざん)本圀寺(ほんこくじ)

〒607-8403 京都府京都市山科区御陵大岩町6  電話 075-593-9191

 

 日蓮が鎌倉の布教拠点としていた松葉谷の草庵を後に法華堂と号し、その後、弘長3年(1263)5月に大光山本国土妙寺として創立された、宗門史上最初の祖跡寺院。

 貞和元年(1345)に日静が光明天皇より寺地を賜り、六条堀川に移転した。「東の祖山」久遠寺に対し、京都に栄えた本圀寺は「西の祖山」と呼ばれた。


【霊跡】

 塚原山(つかはらさん)根本寺(こんぽんじ)
〒952-0109 新潟県佐渡市新穂大野1837  電話 0259-22-3751

 

 日蓮が佐渡流刑のおりはじめに在住した塚原の旧跡に創建した寺。

 文永8年(1271)日蓮が三昧堂を開創。

 永禄年間に日成が三昧堂を正教寺とする。
 天正18年(1590)京都妙覚寺日典が根本寺を開基。 

 (塚原三昧堂にて)

 念仏宗等は日蓮憎しも処刑を禁じられ、法論を挑むも、日蓮ことごとく論破する。(塚原問答)

 開目抄を著述。「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ」


【霊跡】大本山
 富士山(ふじさん)法華本門寺根源(ほっけほんもんじこんげん)
 〔通称〕北山(きたやま)本門寺・重須(おもす)本門寺

〒418-0112 静岡県富士宮市北山4965  電話 0544-58-1004

 

 六老僧日興上人は身延下山ののち、布教拠点の富士郡で大石寺を建立。

 次いで重須郷にて御影堂・本化垂迹天照大神宮・法華本門寺根源の3堂を造営したのが本門寺の始まりである。

 明治9年、重須本門寺をふくむ富士門流の8本山(重須本門寺、上条大石寺、下条妙蓮寺、小泉久遠寺、西山本門寺、伊豆実成寺、京都要法寺、保田妙本寺)および関連諸山は、「日蓮宗興門派」を結成し、同32年「本門宗」へ改称した。
 重須本門寺は同宗総本山で、宗務院がおかれた。

 明治33年、大石寺が末寺とともに本門宗より独立し、「日蓮宗富士派」を公称。大正元年、「日蓮正宗」へ改称した。

 本門宗は昭和16年、日蓮宗、顕本法華宗と三派合同を行い、日蓮宗を結成。重須本門寺は同宗七大本山のひとつとなった。


【霊跡】大本山
 正中山(しょうちゅうざん)法華経寺(ほけきょうじ)
〒272-0813 千葉県市川市中山2-10-1  電話 047-334-3433

 

 日蓮はその布教活動の中で幾度と無く迫害を受けたが、その際千葉氏に仕えていた富木常忍(ときじょうにん)や太田乗明は管轄していた八幡荘に日蓮を迎え入れ保護した。

 特に千葉氏の被官であった富木常忍は、日蓮のために若宮の自邸に法華堂を造営し安息の場を提供するとともに、文吏であったため紙筆を提供してその執筆を助けた。当寺に多くの日蓮の遺文が遺されているのはその縁であると言われている。

 弘安5年(1282)に日蓮が没した後、常忍は出家し自邸の法華堂を法華寺と改め初代住持・常修院日常となり、

日蓮の有力な檀越であった太田乗明の子日高は、父の屋敷を本妙寺とし2代目住持となった。

 日高以来代々の住持は本妙寺と法華寺の両寺の兼務が慣わしとなっていたが、天文14年(1545年)法華寺と本妙寺の両寺を合わせ、「法華経寺」として一つの寺院になった。

 大聖人の書いた「立正安国論」「観心本尊抄」の国宝や重要文化財をはじめとした多数の聖教(仏典)類が保管されている。

 また毎年11月1日より寒壱百日間に及ぶ修行の道場、大荒行堂としても有名。


【霊跡】

 妙法華山(みょうほっけざん)妙照寺(みょうしょうじ)
〒952-1302 新潟県佐渡市市野沢459  電話 0259-52-2435

 

 佐渡流罪の日蓮聖人が住んだ土地で、赦免までの2年間を過ごした場所に寺院を建立した。日蓮宗の本山(霊跡寺院)。山号は妙法華山。

 一の谷妙法華山(いちのさわみょうほけざん)と号する。本尊は釈迦牟尼(しゃかむに)仏。日蓮の開創。

 佐渡に流罪となった日蓮は、文永9年(1272)それまで居住していた塚原三昧(さんまい)堂から一の谷の地頭 近藤伊予守(いよのかみ)清久預りとなったが、地頭一家は宗門を改め、庵(いおり)を建立して日蓮を遇した。

 ここで「観心本尊抄」「法華曼荼羅」を著した。

 文永11年(1274)2月に赦免を受けた日蓮は、弟子の日静をこの庵主(あんじゅ)にあてて島を去る。

 翌、健治元年(1275)本尊仏、山号寺号を身延山から与えて寺にした。

 室町時代には山中12坊を数えて隆盛を誇った。祖師堂の御影、日蓮上人所持の扇子、赦免状の写しなどが伝わる。


【霊跡】

 岩本山(がんぽんざん)實相寺(じっそうじ)
〒416-0901 静岡県富士市岩本1847  電話 0545-61-0909

 

 日蓮大聖人が一切経を閲読し、国宝「立正安国論」を起草した寺院。

 元は円珍が唐より招来した一切経を格護する、天台宗の寺院であり、比叡山と並ぶ僧徒の学問場であった。

 日蓮入山当時は、日源、日興など、のちの高弟になる僧も修行していた。

 健治2年(1276)学頭日源が法華宗(のちの日蓮宗)に改宗。
 14世紀初め頃には全山が日蓮宗となった。


【霊跡】

 長興山(ちょうこうざん)妙本寺(みょうほんじ)
〒248-0007 神奈川県鎌倉市大町1-15-1  電話 0467-22-0777

 

 日蓮聖人を開山に仰ぐ、日蓮宗最古の寺院。

 開基は、源頼朝の側近であった比企能員の末子で、順徳天皇に仕えた儒学者、比企大学三郎能本。

 この地は比企能員一族が住む谷戸やとであったところから「比企ひきがやつ」と呼ばれている。

 比企一族は北条氏に滅ぼされるが、その時京都にいた大学三郎熊本は生き残り、鎌倉で辻説法する日蓮大聖人と出会い、「わが一族の菩提を弔って下さるのは、このお聖人しかいない!」と決心し、自分の屋敷を日蓮聖人に献上したのが妙本寺の始まりである。

 日蓮聖人は、比企能本の父・能員と母に「長興」、「妙本」の法号をそれぞれ授与し、この寺を「長興山 妙本寺」と名付けられた。

 第二祖は日朗聖人、第三祖日輪聖人を迎え、以来妙本寺と池上本門寺は一人の貫首が両山を統括する(両山一首)という方式が第74世 酒井日慎聖人の代まで(昭和16年まで)続いたが、第75世 島田日雅聖人の代より専任の貫首を迎えることになった。