開経偈

無上甚深微妙の法は

百千万劫にも遭い奉ること難し

我今見聞し 受持することを得たり

願わくは如来の第一義を解せん

至極の大乗 思議すべからず

見聞触知皆菩提に近づく

能詮は報身 所詮は法身

色相の文字は 即ち是れ応身なり

無量の功徳 皆この経に集まれリ

是故に自在に 冥に薫じ 密に益す

有智無智 罪を滅し 善を生ず

若しは信 若しは謗

共に仏道を成ぜん

三世の諸仏 甚深の妙典なり

生生世世 値遇し頂戴せん

 

【解説】

開経偈とは日蓮宗に限らず、日本のほぼ全ての宗派で聞くことが出来、

法要の際など、お経を読む前に、「そのお経をお読み出来て有難い事です。」

と喜びと感謝を仏さまにお伝えする文章です。

日蓮宗以外の宗派では、「無上甚深微妙法むじょうじんじんみみょうほう   百千万劫難遭遇ひゃくせんまんごうなんそうぐう

我今見聞得受持がこんけんもんとくじゅじ   願解如来真実義がんげにょらいしんじつぎ」の四句のみを真読(漢字読み)

するのが一般的なようです。

開経偈の出典は不明ですが、一説には古代中国の唐代(7世紀末)、

中国史上唯一の女帝の則天武后そくてんぶこう武則天ぶそくてん)が、

当時世に名高かった神秀じんしゅう慧能えのうという僧を、長安ちょうあん(現在の西安シーアン)に招聘しょうへいし、

やってきた二人を、その城門においてすべての官民を平伏させて迎え入れるほど、

念願が叶って会えた事を記念して、みずからが作って唱えたもの。

ともいわれています。

それほどまでに素晴らしい教えに出会えることは稀有けうなことであり、

喜ばしいことであることを示された文章です。 

 

【現代語訳】

この上無く、その内容は甚だ深い、形容しがたい素晴らしい「法」つまり妙法蓮華経は一劫でも考えられないくらい永い時間であるのに、それが百千万もあるほどの永い時間をかけ、探したとしても出会うことが難しい、有難いものだ。

であるにもかかわらず、私はその法華経に出会い、お読みすることができます。

できることならば、お釈迦さまの説かれた究極の真理であるこの経を理解できますように。

この最高の教えは、あれこれ余計なことを考える必要はありません。

見、聞き、触り、信じるだけで仏さまの境地に近づくことができます。

この教えを説かれるのはこの世において、この上無い覚りを得られたお釈迦さま。

説かれるものは宇宙の真理たる妙法蓮華経。

であるから、法華経に記された、一文字一文字はすべて仏さまの姿そのものです。

このような計り知れない功徳がこの妙法蓮華経に集約しています。

ですから、煩悩にとらわれる事無く、例えそうとは分からなくても、その身に沁みこみ、ひそかにその功徳を与えるのです。

理解度に依らず、その罪障は消え、その善行の功徳が積まれます。

信じる者も、あるいは信じない者でも、この経の功徳によって共に仏道を成就することができます。

過去・現在・未来の諸々の仏さまの深い境地を示された経典なのです。

何度生まれ変わる事があろうとも、その度にこの経に出会い、信奉することができますよう願います。