十大弟子

十大弟子 (じゅうだいでし)とは、釈迦(釈尊)の弟子達の中で主要な10人の弟子のこと。

経典によって誰が十大弟子に入るかは異なるが、維摩経では出家順に以下の通りである。

1.舎利弗(しゃりほつ)
 母の名が「シャーリー(舎利)」。「弗」は息子の意。舎利子とも書く。智慧第一と称される。舎利弗と目連を特に二大弟子と呼ぶ。
 隣村の目連と親友の仲。目連とともに、当初は釈迦とは別の僧に師事したが、釈迦の弟子を通じて釈迦の教えの一部を聞いたとたんに悟りの最初の段階に達したと伝えられる。
 目連を連れて釈迦に弟子入りすると、元の師の他の信徒250人も、彼ら二人に従い、教団を離れ釈迦に弟子入りした。
 その後すぐに最高の悟りを得た舎利弗は釈迦の信任も厚く、時には釈迦に代わって法を説くこともあったという。釈迦の実子である羅ご羅の師僧(和尚)にもなった。
 また提婆達多が釈迦教団から500人を引き連れて分裂させガヤ山へ行ったが、彼が追いかけて弟子衆を引き戻した。

 釈迦よりも年長とされ、目連と共に仏教教団の後継者と目されていた。
 晩年、重い病に罹ると、釈迦の許しを得て侍者チュンダとともに出身地に帰郷し、母に看取られながら病没する。

2.摩訶目犍連(まかもっけんれん)
 弟子中で神通第一といわれる。正しくは目犍連であるが、略して目連といわれる。また十大弟子の筆頭だったので、
 摩訶(意味:大)をつけて摩訶目犍連、大目犍連などとも記される。
 容姿端麗で一切の学問に精通していた。幼くから隣村の舎利弗と仲がよく、出家を共に決意し合ったという。
 彼らは当初、500人の青年の仲間達を引き連れて釈迦とは別の師に弟子入りしたが満足せず、「もし満足する師が見つかれば共に入門しよう」と誓った。
 後に舎利弗が釈迦とその法を知るや、目連に知らせて共に五百人のうち半分の弟子衆を引き連れて竹林精舎に到り仏弟子となった。
 目連は後に悟りを得て、長老といわれる上足の弟子に数えられ、各地に赴き釈迦の教化を扶助した。
 彼は神通によって釈迦の説法を邪魔する鬼神や竜を降伏させたり、異端者や外道を追放したため、多く恨みをかったこともあり、逆に迫害される事も多かったという。
 特に六師外道の一とされるジャイナ教徒からよく迫害された。提婆達多の弟子達に暗殺されかかったともいわれている。
 また釈迦族を殲滅せんとしたコーサラ国の軍隊を撃退しようとして、釈迦から制止されたりしたこともあった。

 伝説では、釈迦の涅槃に先だって上足の二弟子がまず涅槃するのは、三世諸仏の常法といわれる。
 目連と舎利弗が釈迦に先んじて滅したのは、釈迦の説法が正しいことを証明するために成仏の実相を示したといわれる。

 目連が餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が『盂蘭盆会』(うらぼんえ)の起源とされる。

3.摩訶迦葉(まかかしょう)
 大迦葉とも呼ばれる。仏教教団で釈迦の後継(第2祖)とされ、釈迦の死後、初めての結集(第1結集)の座長を務めた。
 頭陀(托鉢)第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行った。

 迦葉は出家してもバラモンの修行をしていたが、釈迦と出会い、仏弟子となり竹林精舎に到った。
 釈迦に入門したとき、すでに32相中、7相を具えていたとされ、8日目に阿羅漢となったと伝えられる。

4.須菩提(しゅぼだい)
 解空(げくう)第一または無諍(むそう)第一といわれる。
 解空 とは空を良く理解していること。空は般若心経に出てくる「色即是空、空即是色」の空。物事にとらわれない、執着しない、という教え。
 空は元々膨らんだ状態を意味し、中が空洞化すること。内実がないこと。実体が無いこと。
 無諍とは言い争いをしないこと。須菩提は、元は短気で粗暴な性格であったが、お釈迦様に出会い、円満な人格となり教団内は勿論のこと、在家の人々からも慕われていた。
 争う心がないとき、真に心の平安を得ることができる。

 釈尊が忉利天(とうりてん)で説法され、もどってきた時に、須菩提は迎えに行かず、釈尊の身体も、我が身体もすべて空であれば
 迎える者も迎えられる者もないと衣を縫っていた。そのとき釈尊は、自分を一番に礼拝して迎えたのは須菩提であるとほめたという。

 須菩提は、お釈迦様に祇園精舎を寄進した人(須達多長者/すだったちょうじゃ)の甥。

5.富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし)
 略称として「富楼那」。説法第一。
 釈迦とは生年月が同じで、幼くして既に聡明で、バラモンの教えに通じていたが、世塵を厭うてヒマラヤに入山学道し、苦行を重ねて四禅定と五神通を得たが、
 釈迦の成道を聞き、鹿野苑へ同朋と赴き仏弟子となった。
 舎利弗は彼の徳風を慕い、日中に彼が坐禅する場所に行き、よく問答を行い互いに賞賛しあっていたという。
 また阿難も、新入の比丘衆に対して、富楼那は非常にためになる比丘であると諭していた。
 後に阿羅漢果を得て各地に赴き、よく教化の実を挙げ、9万9000人の人々を教化したとも伝えられる。

6.摩訶迦旃延(まかかせんねん)
 論議第一と称される。摩訶(偉大なるという意)をつけて摩訶迦旃延、あるいは大迦旃延などとも呼ばれる。
 西インドの婆羅門出身で、王の帝師の子で、王の命により釈迦仏を招くために、7名の王臣と共に仏所に赴き出家した。とも
 南インドの婆羅門出身で、かつて釈迦誕生時に相せし阿私陀仙(アシタ仙人、釈迦が将来、仏となると予言した)の弟子で、師の娘を娶り、また師の遺命により仏弟子となった。
 ともいわれる。

 彼がいつ仏教教団に入ったかはわからないが、初期の仏教伝道において重要な働きをした。仏や舎利弗、目連の滅後、教団の中心となってよく活躍したという。
 子供の頃より聡明で、一度聞いた内容は忘れず良く理解したと言われる。それでも難解で理解できないことがあり、釈迦に教えを請うことになり、
 これがきっかけで弟子となったとされる。

 仏の教えを広く解りやすく、義を分別して広説し、釈迦仏から讃嘆された。南方所伝の仏教でも釈迦滅後も弘教に努めたといわれる。

7.阿那律(あなりつ)
 天眼(てんげん)第一。釈迦の従弟。阿難とともに出家した。
 シャカ族の太子であったが、先に弟子になった人に礼拝し挨拶するという釈迦教団の儀礼に従い、阿那律ら王子たちがカースト下位の優波離に礼拝すると
 釈迦から「よくぞ釈迦族の高慢な心を滅した!」と讃じたという。

 仏の前で居眠りして叱責をうけ、眠らぬ誓いをたて、視力を失ったがそのためかえって真理を見る眼をえた。

 釈迦仏の最後の布教の旅にも同行し、釈迦仏入滅において慟哭し悲嘆する弟子たちを慰め励ました。
 釈迦仏入滅後、阿難陀に指示して葬儀の用意をさせたともいわれる。

8.優波離(うぱり)
 持律第一。もとはカースト下位の理髪師だが、出家した順序にしたがって、貴族出身の比丘の兄弟子とされた。

 彼は戒律をよく守り精通する事から、釈迦教団における規律は彼によって設けられたものが多く、彼と遊行する者は、みな持律者であるとまでいわれた。
 釈迦入滅後、第1回の仏典結集では、阿難が経を誦出したが、彼は戒律を誦出し編纂の中心人物として活躍した。

9.羅睺羅(らごら)
 カタカナでラーフラとも多く書かれる。密行(みつぎょう)第一。
 釈迦の長男。釈迦の帰郷に際し出家して最初の沙弥(少年僧) となる。そこから、日本では寺院の子弟のことを仏教用語で羅子(らご)と言う。

 幼い時、父である釈迦に、王位継承の為財宝を下さいとねだった。釈迦は息子に永遠の真理という財宝を与えようと、舎利弗・目連という二大弟子を
 彼の教育係に指名し、出家させた。
 仏の実子という立場から、初めは戯れで噓をつくなど傲慢であったが、父に厳しく叱られ、戒律を厳しく守るようになった。
 あるとき釈迦は戒律を受けた者と受けていない者は同じ部屋に寝てはいけないという戒律を作った。
 戒律を破ってはいけないと、それまで好意的だった仏弟子たちはその時まだ戒律を受けていなかった羅睺羅と寝ようとしなかった。
 寝る場所のない羅睺羅は文句ひとつ言わず便所で眠った。釈迦はその事実を皆に告げ、戒律を変更した。
 これは釈迦があえて行ったことで、戒律が独り歩きして、集団生活の在り方を弟子たちが忘れていた為であるとされる。

 密行第一とされるが、これは羅睺羅が人前に出る事を好まず、独り瞑想することを好んだ事による。

10.阿難陀(あなんだ)
 アーナンダ。阿難とも書く。多聞(たもん)第一。
 釈迦の従弟(釈迦の父の弟の子)。提婆達多の弟。ナンダは歓喜(かんぎ)という意味がある。
 釈迦が55歳、阿難が25歳の時に出家して以来、釈迦が死ぬまで25年間、釈迦の付き人をした。
 そのため釈迦の弟子の中で教説を最も多く聞きよく記憶していたので「多聞第一」といわれ、第1回の経典結集には彼の参加が望まれたが、
 当時結集への参加資格であった阿羅漢果を未だ得ていなかった彼は、釈迦の後継者であった摩訶迦葉に参加を認められなかった。
 そのため彼は熱誠を込めて瞑想修行を続け、その疲れから倒れ込んだ拍子に忽然と悟り、ついに阿羅漢果に達したという。ときに経典結集当日の朝のことであったという。
 こうして第1回の経典結集に晴れて参加した阿難は、記憶に基づいて釈迦の教えを口述し、経典が編纂されたという。
 漢訳経典の冒頭の「如是我聞」という定型句は、「我は仏陀からこのように聞いた」という意味であるが、この「我」とは多くが阿難であるとされる。

 彼は美男子ゆえに、女難を被ることが度々あったと言われるが、志操堅固にして身を護り修行を全うした。

 釈迦滅後の教団指導者、摩訶迦葉の滅後、教団を引き継ぎ、120歳で亡くなるまで教えを説き続けたという。